どん底からのぼれろ

【PC9801】終戦記念日が近いことだし「戦略空軍」でも紹介するぜ!


今年も日本独自の終戦記念「8・15」が近付いてまいりました(世界基準では9・3が正式な終戦の日)。日本人は学校教育において、戦勝国による造られた歴史・自虐史を刷り込まれます。よって、大戦に至る本当の経緯などを殆どの人は知らないと思います。私も歳を重ねるまで知りませんでした。DSとかOSS(現CIA)とかNSAとか色々と裏があるものですなあ。

で、それはさておき久々にレトロゲームネタでございます。1990年、ホビージャパンからPC9801用ソフトとして登場した、二次大戦を舞台にした戦争シミュレーション「戦略空軍」でございます。

1990年と言うと、私はまだ小学生で愛知県にいた頃で、ドラクエ4が発売された年です。そんなガキンチョが、このような難解なSLGを購入するはずもなく、いつ購入したかすら記憶にございません。さらにプレイしておりません笑。倉庫から「大戦略4」などの戦争SLGと一緒に出てきました。

大戦略シリーズは、MD版「AD大戦略・ドイツ電撃作戦」なども含め、ちょいちょいとプレイしているのですが、本作「戦略空軍」は購入時期も遊んだ記憶すらもない。いつ購入したんだろう、知らん間に倉庫に置いてあるとか気味が悪いな、遺品じゃないだろな🤔

そんな謎多き本作「戦略空軍」でございますが、大人向けのPCゲームだけに、マニュアルだけではなく設定資料に至るまで非常に細かく、まるで二次大戦関連の専門書籍を読んでいるような錯覚に陥ります。ゲームをプレイしなくても、これらを読むだけでも非常に勉強になる内容でした。軍事オタクが集結したであろう制作チームの熱意を感じさせます。

では、パッケージから見ていこう!

 


いやー、PC286/386とか懐かし過ぎますなあ。私は90年代末期に286VFだったかを中古で購入しているんですよ。その後、9801を入手したので処分したのですが、子供の頃は店頭でNEC98機と一緒に並んでいた286/386シリーズのデモを、近所の電気屋でよく眺めていたものです。

この時点でMS-DOSは2.11以降か。ハードディスクにインスコするにも、DOSで命令プログラムを入力しないといけなかった時代。友人が98機を持っていたのですが、DOSプログラムが全く分からない為にゲームをインスコできなくて、私が代わりに作業をしていましたわ。友人が買っていたのは主にelfのエロゲーでしたけどねい!😂

 


まず、リアルさを追求しました。それは昼間時間のリアルタイムコンバットの採用。これにより、地図上を実際と同じ比率速度で、自国に飛来した爆撃機を追撃する迎撃機が生まれました。

次に、精密さを追求しました。それは、各航空機の性能だけに留まらず、積んでいる機銃の性能やエンジンの信頼度などに及び、更には各都市の主要産業、個別の生産能力、復旧力や生産力向上など、どれを取っても当時を精密に再現しています。

最後に、ほとばしる歴史の流れを導入しました。敵の上陸作戦や侵略作戦を止められるのは、あなたの運用作戦次第です。

そして、あなたの為にゲーム性を付け加えました。歴史上の名機だけではなく、自分で自国の主力戦闘機をデザインし、投入することができます。ドイツの命運を握ったジェット戦闘機「Me-262」、日本初のロケット迎撃機「秋水」。果たして彼らは自国を救えるのだろうか・・・。結論は、あなたの腕にかかっています。

というパッケ裏のゲーム紹介文。戦闘機エディタは大戦略シリーズにも無い機能ではないでしょうか。自分で戦闘機を作れるのは面白そうですな。しかもリアルタイムSLGか、当時流行っていたリアルタイムSLGファーストクイーン」のゴチャゴチャしていないバージョンみたいな感じだろうか?

本作についてはウィキが存在しておらず、プレイ動画も一切出てこない(空軍大戦略が出てくるがあれは違う苦笑)。解説や紹介しているサイトも数えるほどしか出てこない為、相当なマイナー作品かもしれないですね。

でも、パッケの紹介文や画面情報を見る限り、大戦略とは違った戦争SLGとして非常に面白そうに感じます。何より、パッケージやマニュアル類から製作者たちの熱意が凄く伝わってくるんですよね。これ、プロジェクトEGGみたいなところで配信されないのでしょうか。このまま埋もれてしまうのは勿体ない感じがするなあ。

 


シナリオについて
このゲームはシナリオ方式になっており、プレイヤーは最初にどのシナリオを遊ぶかを選択してからゲームに入ります。シナリオは2つあります。

シナリオ1:ドイツ編
1943年1月1日から始まる、西ヨーロッパを中心にしたシナリオです。プレイヤーは、爆撃側であるアメリカ・イギリス連合軍か、迎撃側であるドイツ軍かどちらかを選択してプレイします。アメリカ・イギリス連合軍は、爆撃機および護衛機をうまく運用してドイツの施設を爆撃し、その生産能力を低下させるのを目的とします。一方、ドイツ側は迎撃機を飛ばして応戦し、本国を守って生産力を向上させることを目的とします。

シナリオ2:日本編
1944年から始まる、日本を中心にしたシナリオです。プレイヤーは、爆撃側であるアメリカ軍か、迎撃側である日本軍のどちらかを選択してプレイします。アメリカ軍は、日本の防空網をかいくぐって主要施設の爆撃を計画し、その生産能力を低下させるのが目的です。一方日本軍は、日増しに激しくなってくるアメリカ軍の爆撃をいかに防御するかが目的です。

どちらのシナリオも、両軍ともコンピューターにまかせる、どちらか一方をプレイする、両軍とも人間がプレイするの3通りの遊び方が可能です。

ヒトラー気分でドイツ軍を指揮しWW2を勝利に導くことが出来る作品は「AD大戦略」が存在しますが、旧日本軍を指揮できるゲームは珍しいのでは。最近では「大日本帝國海軍」くらいかな。そういう意味でも本作は非常に面白そう。配信は無理なのでしょうかねえ。

 

ゲームの流れ
「戦略空軍」は、2つの陣営に分れて戦いを進めていくゲームです。陣営は、攻撃側(または爆撃側)と防御側(または迎撃側)に分れており、爆撃側は爆撃しかできませんし、迎撃側は爆撃はできず、迎撃だけをします。

シナリオ1では、アメリカ・イギリス連合軍が爆撃側になり、ドイツ軍が迎撃側になります。シナリオ2では、アメリカ軍が爆撃側になり、日本軍が迎撃側になります。

迎撃側のみ勝利得点を持っており、これは迎撃側の各施設の生産力の合計により算出されます。この勝利得点の上下によって、ゲームの終了が決定され、勝利判定がなされます。

迎撃側の各施設が爆撃されると、その施設の生産力が低下し、当然全体の勝利得点は下がります。しかし、迎撃側の各施設は、毎日少しずつ生産力が自動的に上昇して行きます。生産力が上昇すれば勝利得点が上がります。爆撃側は、この勝利得点を下げるのを目的とし、迎撃側は勝利得点を上げるのを目的とします。

なるほど、シナリオに沿った戦略が要求されるという意味では「AD大戦略」に近い感じかもしれませんな。もしかしたら、追加シナリオディスクも製作される予定があったのかもしれませんね。ゲームの完成度はどうだったのだろう。

 

 


本作の見どころの1つ、ゲーム本編以外の資料類である。例えばヒストリカルノートには、各国の大戦に至るまでの動きから経過、終戦間近までの流れが非常に細かく記載されており、まるで1つの独立した専門書籍のようでございます。これを読むだけでも非常に勉強になります。

 


例として、データチャートに掲載されている、各国の空軍機データを一部掲載してみましょう。卍まんじ卍卍。


ゼロ戦に〇〇型とかあるん?ワシ初めて知ったわ、零戦零戦という1種しかないものかと・・・これも艦これとかに出てくるんすか?あれは艦隊だから零戦は関係ないか😦


これ「USAAFムスタング」に出てきた戦闘機だっけ?コードネームは柳ジョージか、渋くてかっこええやんけ!


キー100なんて知らねえぞい。色んな機体があるんですなあ。川崎五式戦闘機という名は聞いたことがありますわ、あれがキー100だったのか。軍オタじゃないから全然わからん😱


ドイツ軍や英米軍などの機体も紹介されています。単なるデータだけではなく、細かく解説も加えられていますよ。例えば、下記のような感じです。

雷電
日本軍にとって、終戦まぎわ活躍が期待されていた、もしくは実際に活躍した機体に、雷電橘花がある。雷電は日華事変の教訓により上昇力と速度にすぐれ、飛来する敵爆撃機に対して、もしくはその護衛戦闘機に対しても充分な空戦がいどめる航空機をめざし、日本初の迎撃用戦闘機として設計された。

実戦配備された雷電は、エンジン直径が大きいため視界が悪い、航続距離が短いなどといった欠点があったが、その上昇力は日本機の中では群を抜いてすぐれており、B-29迎撃では一番活躍した機体であった。

ただ、設計構想は昭和14年ごろだったにもかかわらず、実戦配備されたのは昭和19年9月も終わりの頃であった。結局、最終的な生産数は450機程度で終わってしまっている。もっと早く実戦配備されて、もっとたくさん作られていたら、と、おしまれる航空機である。

橘花
橘花は、ドイツのMe-262を参考にして日本で新たに設計をしなおした日本初のジェット戦闘機である。その潜在的戦闘能力は従来のプロペラ機とは比べようがなく、海軍も多大なる期待をよせていたが、設計が始まったのが昭和19年10月、試作1号機が完成したのが20年7月であった。

1度の試験飛行は成功したが、2号機完成間近で8月をむかえ、終戦となった。この優秀な機体がもっと早く登場していれば、日本の防空戦闘の様相も変っていたに違いない。

・・・雷電橘花といった、軍事オンチの私でも知っているような有名機から、よく分からん戦闘機まで、製作者の熱き思いが伝わる解説が掲載されています。読むだけで面白いと思います、軍事オタクの人ならだけど。

 


本作の細かすぎる設定資料を文字に起こしたので、その一部を抜粋して掲載しましょう!これでも一部です。実際はもっと長いです。大変に勉強になる資料ですので、是非目を通してみてちょ。

 

前書き
ライト兄弟の手によって自重300kgたらずの動力機が始めて空を飛んだのは1903年のことであった。それから10年たった第1次世界大戦には既に航空機は戦争の一翼を担うまでに成長していた。

大戦が始まるとすぐにツェッペリン飛行船が偵察・爆撃任務を行なうようになった。 一方、航空機の方も開戦時には各国が保有しており、偵察任務などにつくようになった。じきに各国は航空機に爆弾を搭載するようになり、専用の爆撃機が作られるようになった。ドイツ軍はロンドンを、連合軍はライン川沿いの工業地帯を爆撃し、各国は航空機の威力と爆撃の効果を認識することになった。

イギリスでは1918年に早くもイギリス空軍(ロイヤルエアフォース)が誕生し、独立した作戦任務を行なう組織として活動を開始した。戦後、空軍を解体すべしとの声もあったが紆余曲折をへて成長していった。

第1次世界大戦後、いくつかの空軍戦略についての書が発表されたが、その中でもイタリアのドゥエの理論は注目に値する。彼はきたるべき大戦も陣地戦の様相を示すであろうと予想し、それを打破できるのは航空機であると説いた。制空権の必要性、敵の地上目標を有効にたたくことが可能な爆撃機の開発といったものを前提にして、彼は次の様なことがらを述べたのである。

1. 国防には制空が必要である。
2. 敵を攻撃するときには軍事目的よりも人口の中心を目標とすべきである。
3. 敵の空軍を防御するには空中戦で防ぐのではなく、敵の航空機工場、飛行場を攻撃するべきである。
4. 地上部隊は友軍の飛行場を守るような副次的な役割が与えられる。

事実、第2次世界大戦は空軍の戦いとなった。作戦の成功は敵制空権下ではのぞめなかった。そして空軍は単独で敵国家の戦争継続能力を奪うことすら可能になったのであった。ここでは戦略爆撃、つまり空軍力によって敵の戦争継続能力を撃破する作戦の誕生と発展について述べるものである。ゲームをプレイする人々にとって何らかの形で参考になれば幸いである。

第二次世界大戦の始めから戦略爆撃があったわけではない。第二次世界大戦の航空戦をとおして次第に戦術、技術が完成してゆき、最後には1000機もの爆撃機が1晩に発進するような規模に発展したのである。ここでは3つの航空戦、1940年の「英国の戦い」、1943~45年の「ドイツ上空の戦い」、そして「日本上空の戦い」を解説することで、戦略空軍の発展の過程を見て行こうと思う。

 

 

バトル・オブ・ブリテン(英国の戦い)

開戦からフランス降伏まで
第2次世界大戦が始まったときドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)は世界最強の空軍であったと言って良いだろう。開戦時にドイツ空軍は各種合わせて4000機以上の航空機を所有していた。

ヴェルサイユ条約下における秘密裏の研究から始まって、1933年以降のドイツ軍の拡大、そしてスペイン内乱での実戦経験といったものをへて成長したドイツ空軍はポーランド戦、ノルウェー戦、フランス戦で威力をいかんなく発揮した。

しかし、その栄光の最中にも幾つかの問題点を見ることができる。ゲームのテーマであるドイツ、日本に対する戦略爆撃を述べる前にその問題点を見てゆこう。まずドイツ空軍が陸軍の支援と制空を目的として作られていたことである。急降下爆撃機であるJu-87は低速で、航続距離が短く、前線近くの地上目標しか攻撃できなかった。

また爆撃機であるJu-88やHe-111は双発で、爆弾搭載量が少なく、防御も弱かった。なにより組織の問題があった。ドイツ空軍は多くの地上要員を陸軍との連絡用に振り分けていた。

ドイツ陸軍は各師団に空軍との連絡用の器材と人員を持っており、これは非常 に有効であったが、限られたドイツの資源では戦略任務に必要な地上管制や長距離偵察に振り向けられる人員を減少させたことは事実である。

制空任務にしてもMe-109は第1級の戦闘機ではあったが、航続距離が短く戦線が基地から近いヨーロッパ大陸ならともかく、英仏海峡を渡るだけでも作戦を大きく制限された。これはすでにノルウェー戦で問題になっており、このときは双発戦闘機のMe-110で急場をしのいだのである。

ノルウェー空軍が弱体で、イギリス海軍の艦載機のみが敵であったからドイツ軍のノルウェー侵攻にはそう影響はなかったかもしれないが、Me-109の航続距離の短さは問題にされるべきであったろう。Me-109の航続距離はおよそ660kmほどであったが、これは日本の零戦の2000kmという数字に比べるとあまりに短い数字であった。

このようにドイツ空軍はヨーロッパ大陸の中で、ドイツ国境から遠くない地域での戦闘を目的として建設された空軍であったと言えるであろう。もっともこれは批判にはあたらない。ヴェルサイユ条約を破棄してから10年あまりでこれだけの空軍を創り上げたの であるから、すべてを満たすことは不可能であったろう。

1940年6月にドイツがフランスを席捲したとき、イギリスは次に来るのはイギリス本国での戦いであるとして、既に死に体となっているフランスから戦闘機中隊を撤収して来るべき決戦に備えた。

それでもフランスからイギリス陸軍を撤収させる際には空軍はダンケルクに強力な支援を送り、撤退を成功させた。ドイツ空軍もイギリス空軍がいままでの敵とは違って自分たちと同等の技柄と装備を持っていることを発見した。

決戦開始
ドイツ海軍は、十分な艦船を持っていなかったので、ドイツ軍がイギリス本土へ上陸するにはイギリス海峡の制空権を握らなければならない。

イギリスは前年来航空機の生産に全力を注いでいた。航空機生産省が創られ、なんとかドイツ空軍に追い付こうとしていた。ドイツ空軍とイギリス空軍の戦力比は1940年夏の時点でおよそ3対1であった。そのうちスピットファイア、ハリケーンは800機であった。一方のドイツ空軍は1000機のMe-109とMe-110を持っていた。

イギリス空軍の戦闘機は戦闘機コマンドという組織にまとめられ、その司令官はヒュー・ダウジング中将であった。一方のドイツ空軍はオランダからフランスに第2航空艦隊、第3航空艦隊、そしてノルウェーに第5航空艦隊というように3つの航空艦隊に分かれて展開していた。

対英航空戦の計画はフランス戦終了直前から研究されていた。イギリス空軍、航空産業、港湾といった目標が設定され、空軍総司令官ゲーリンクはすべての目標を同時に達成できると考えていた。

しかし空軍参謀本部と現場の上級指揮官はダンケルクで経験したイギリス空軍の強力な抵抗をあなどりがたいものと考えており、まずイギリス空軍の殲滅に全力をあげるべきだと考えていた。いずれの目標を達成するにしても、その方法と手順については明確に設定されてはいなかった。とりあえず攻撃するのである。

戦略的に見て航空攻撃は攻撃側が主導権を握ることができる。またドイツ軍はイギリスを取り囲んでおり、侵攻ルートをいくつか選べる優位を持っていた。一方のイギリス軍はいわゆる内線の利、つまり戦力を効果的に敵軍へ向わせることができた。

口ンドンの北20kmほどのところにある戦闘機コマンドの地下司令部にはイギリス南部一 帯にはりめぐらされたレーダー基地からの情報が収集され、ドイツ空軍の侵入ルート、機数、高度などが処理された。

7月にはイギリス海峡上でのこぜりあいとJu-88による機雷敷設が始まった。ドイツ空軍はイギリスの戦闘機を誘い出して消耗させようとしたが、イギリス空軍はこの期間に自軍の防空態勢の不備を発見し、それを整備することができた。そして8月8日、攻撃が開始された。

第1段階
バトル・オブ・ブリテンは4つの段階に分けられる。最初の第1段階は8月8日に始まる。これはドイツ空軍による海峡の艦船攻撃から始まる前哨戦であった。そしてドイツ軍は8月13日に総攻撃を開始することになっていた。「鷲の日」と呼ばれる全面攻撃は、天候、そしてドイツ軍の不手際のためにイギリス軍に与えた損害は軽かった。

ドイツ軍パイロットがまったく失望したことは、まずMe-110の空戦能力がイギリス機に比べ著しく劣っていることであった。この機は駆逐機と呼ばれ、Me-109に比べ1.5倍の航続距離を持っていて、爆撃隊の護衛を引き受けるはずであった。

ところがこの機は鈍重で、いったん空中戦になれば自分を守ることで精一杯、後にはMe-109の護衛を受けなければならなくなることもしばしばであった。

おかげでドイツ軍の爆撃機は十分な護衛を受けられず、特に速度の遅いJu-87などは初戦で大損害を出してしまい、そうそうに戦いから引き上げられたのである。そして、戦闘機隊と爆撃機隊の間には十分な協力態勢ができていないことが明らかになった。2つの編隊は別な飛行場から発進して途中で合流する。

これは航続距離の短い戦闘機をできるだけ長い間イギリス上空で護衛につけるための処置であったのだが、実際やってみると、ある編隊は2つの戦闘機隊の護衛を受け、またあるものはまったく護衛を受けられないなどということ もあった。ドイツ空軍は陸軍との共同作戦には長じていた。専用の器材や人員も多数 配備されていた。

しかし、戦闘機と爆撃機を効果的に共同して目標にあたらせるには、人材も経験も不足していたのである。また、その距離から戦闘機の護衛をまったく受けられないノルウェーの第5航空艦隊はひどい損害を受け、すぐに作戦から外される ことになった。

第2段階
第2段階はイギリス空軍に対する攻撃であった。8月中旬から9月始めにかけて飛行場、戦闘機コマンド、防空指揮所に対する攻撃が強化された。2つの2大空軍がまっこうから対抗したのである。

恐るべき消耗戦が始まった。ドイツ空軍は8月には700機の保有機を失った。またその中には168機のMe-109とそのパイロットが含まれていた。これは作戦前のMe-109の15%にもあたる数字であった。

一方のイギリス軍も保有する戦闘機の25%にあたる260機を失った。これはイギリスにとって最も危険な時期だった。いくつもの飛行場が破壊され、パイロットと地上要員は大きな損害を被った。ドイツ空軍も多くの損害をうけていたが、戦闘機の損害では互角以上のスコアをあげており、この状態が続けばイギリス軍が先に音をあげたかもしれない。

イギリス軍は戦術を変更した。海峡上まで深追いしないこと(どうせMe-109はイギリス上空には30分程度しかいられないのである)、戦闘機同士の戦闘は避け、爆撃機を狙うことにしたのである。

爆撃機の損害の多さに、ドイツ軍は戦闘機部隊の行動を束縛し始めた。ドイツ軍戦闘機は爆撃機の護衛を第1の任務とするというのである。これによってドイツ軍の戦闘機は爆撃機の護衛にはりつけになり、自由にイギリス戦闘機と交わることができなくなっていた。そして事態を大きく変化させる出来事が起こりつつあったのである。

第3段階
この段階は、ドイツ軍が工業都市およびロンドンに対する攻撃に切り替えた時期である。ヒトラーは最初、政治的見地からロンドン爆撃を禁じていたのであるが、8月23日の夜、ドイツ空軍の爆撃機が、目標を過ってロンドンへ爆弾を落としたことから連鎖反応が始まった。ロンドン爆撃に答え、チャーチル爆撃機コマンドに対しベルリンへの報復攻撃を命じた。

ベルリン爆撃はドイツへの損害はほとんどまるでなかったのだが、ドイツ空軍の威信は地に墜ちた。第3帝国の首都がおびやかされることがあってはならないのである。そして9月5日についに報復として正式にロンドン爆撃を命じたのである。9月7日にはロンドンは激しい爆撃を受け、テームズ川沿いのドックを中心に(ロンドンはイギリス有数の港でもある)大きな損害を受けた。

ロンドンがドイツ軍の攻撃を引き受けている間に、いまにも壊滅しかかっていたイギリス空軍の戦闘機コマンドは一息つくことができた。破壊された施設を修理し、パイロットたちは休養をとることができた。ロンドンは爆撃にさらされたが、飛行場に対する攻撃よりもはるかに迎撃しやすかった。

ドイツ陸海軍のイギリス上陸作戦「ゼーレーベ」は最初9月11日と定められていたが、イギリス上空の制空権が握れず、またイギリス軍爆撃隊のフランス港湾に対する攻撃のために船舶を多数失ったことなどから延期されていた。

9月15日ドイツ軍は最後の大規模な昼間空襲を行なった。この日、ドイツ軍は動員した航空機のうち56機を撃墜され、その他にも数十機の損傷機を出し、出撃機の損害率は25%に達したのである。

ドイツ軍がこのまま攻撃を続ければドイツ空軍は消滅してしまう。この日を境に昼間ドイツ軍機がロンドン上空を飛行することはなかったのである。この日をイギリスでは「バトル・オブ・ブリテン・デイ」として記念日にしている。

9月17日、ヒトラーはついにゼーレーベの無期延期を決定。イギリスは救われたのである。9月中に2回の昼間爆撃が行なわれたが10月以降のドイツ軍のイギリス爆撃は夜間に限られ、これはイギリスに有効な損害を与えることはなかった。普通はここまでをバトル・オブ・ブリテンと呼ぶ。

ドイツ本土の戦い
先に述べたとおり、ドイツ空軍が強力であった1940年でもドイツ本土は爆撃を受けている。1941年、1942年とイギリス軍は爆撃を行なっていたが、これらの空襲による損害はほとんどなかったと言って良かった。ドイツ空軍は、イギリスでの自軍の失敗を考え、敵爆撃機の迎撃は簡単なことであると考えていた。

最初イギリス軍の爆撃は、発電所、石油工場、鉄道、ダム、造船所といった産業の要所に向けられたが、これは難しかった。目標の適切な選択と、爆撃の高い精度が要求されたからである。また正確さを求めることは爆撃を昼間に行なうことになり、ドイツ軍がイギリスで遭遇したと同じように激しい迎撃を受けることになる。

イギリス空軍はその困難さを認め、作戦を夜間爆撃に変更した。目標を破壊できなくともその周辺に爆弾を投下すれば、周辺の労働者や住民に影響を与え、ドイツ経済に影響を与えることが可能であろう。

しかし、これはドイツ軍がスペインのゲルニカや、ロッテルダム、ロンドンなどで行なったのと同じ無差別爆撃になるのである。いずれにせよ、まだドイツの力は強力であり、イギリスの爆撃機コマンドは非難や報復を覚悟で夜間の地域爆撃を行なう決断をした。1942年のことである。夜間の爆撃のために、航法システム、地形レーダーなどが開発された。

昼か夜か
昼間爆撃と夜間爆撃、どちらがより有効か?この論争はアメリカとイギリスがまっこうから対立した。イギリス側は過去の苦い経験より、爆撃編隊の被害を減らすために夜間の無差別爆撃を主張し(夜間の精密爆撃はとうてい無理である)、アメリカ側は、もともと主力爆撃機のB-17が「自分で自分の身を守れる爆撃機」という設計のもとにつくられたものであり、昼間であれば夜間の5倍の精度で爆撃でき、必然的に爆弾量が5分の1ですむと指摘し、昼間爆撃を主張した。これは最後まで両者折り合いがつかなかった。

実際のところは、イギリスのランカスターやリベレーターなどの主力爆撃機は、B-17などにくらべて火力が乏しく、自衛能力が低かったという事実、アメリカは既に昼間爆撃で多大なる損害をだしており、いまさら手を引くことはできなかった、というところである。とにかく、イギリスは夜間、アメリカ第8空軍は昼間という役割分担ができあがり、これによってドイツ本土は昼も夜もひっきりなしに連合軍の爆撃にさらされることになるのである。

秋になると、悪天候のために出撃は限られても、フランスのリール鉄鉱地帯やサン=ナゼールに対する爆撃はかなりの成果を挙げた。しかし、サン=ナゼールに対する爆撃ではドイツ軍の強力な迎撃を受けて、昼間堤較の困難さを認識させた。ドイツ軍機はB-17の前面から攻撃してきた。前面から攻撃する速度は時速900kmにも達するのであるが、前面はB-17で最も火力の弱い箇所だったのである。

カサブランカ会談
1943年の1月に行なわれたカサブランカ会談では、爆撃方法に関してチャーチルとエイカーは議論を重ねた。チャーチルアメリカ軍も夜間爆撃に参加すればもっと効果的な打撃をドイツに与えられると考えたのである。

しかしエイカーは自分たちの方法を主張した。そして結局、昼も夜も爆撃することになる。「イギリス軍が夜、アメリカ 軍が昼爆撃すればドイツ防空軍は眠ることもできないであろう」以後ドイツが降伏するまでこの役割分担が続く。

また、このときに爆撃目標が決められた。主目標は「ドイツの軍事、産業、経済機構の破壊および混乱を促し、軍事的抵抗力が致命的な打撃を被るまでドイツ国民の士気をくじくことにある」とされた。

長すぎて以下略😱

 

 

日本本土の戦い

準備段階
ヨーロッパで連合軍が制空権を握りつつあった1944年には太平洋の戦況も日本に不利に傾いていた。資源を得るために始めた戦争ではあったが、南方からその資源を運ぶことは、制空権・制海権を失いつつあった日本にとって困難になっていた。

6月16日、中国から発進したアメリカ第20空軍のB-29の編隊が九州の八幡製鉄所を爆撃した。B-29をもってしても中国内の日本占領地および朝鮮半島、九州しか爆撃範囲に入っていなかったが、秋までには範囲内の工業地帯は重大な損害を受けた。

B-29は1942年から生産が始まった機体で、アメリカ軍の戦略爆撃理論をさらに推し進めた 航空機であった。上昇限度9600m、最大速度576km/hという数字は戦闘機でさえ迎撃 するのが困難なものであった。

アメリカ軍は日本本土への作戦として、封鎖、空襲、上陸の3段階を考えた。既に潜水艦による封鎖は進んでおり、1945年11月には九州上陸が計画されていた。それに先んじて、まず日本の軍事施設、工場および国民の戦意を粉砕すべく爆撃を開始しなければならない状況であった。

中国の基地からは日本の一部しか爆撃できなっかたため、新たな基地の確保が急がれた。1944年7月、アメリカ軍はマリアナ諸島に侵攻した。マリアナ諸島は日本軍の定めた絶対防衛圏内にあり、そこを発進したB-29が東京を始めとする主要都市を爆撃できる位置にあった。

日本海軍も「あ」号作戦を発動し、現存空母のすべてを投入したが逆に壊滅的な打撃を被った。マリアナ沖海戦で日本海軍は正規空母2隻と軽空母1隻、そして艦載機300機以上を失い、これを境にしてもはや艦隊航空戦力は再建されることはなかったのである。

本土爆撃開始
激しい戦闘の後、マリアナ諸島の制圧が完了し飛行場が整備されると第20空軍が展開した。ヨーロッパでの経験と新爆撃機への期待からアメリカ軍は自信満々であった。偵察飛行に続いて1944年11月、70機のB-29が東京を爆撃した。翌年3月までの期間、アメリカ軍の攻撃は高度10000mからの工場、軍事施設、特に航空機エンジン工場を狙った精密爆撃であったが命中率は低かった。

昼間高高度から爆撃することはヨーロッパでアメリカ軍が行なったのと同じ戦法であったが、日本を昼間爆撃すると、マリアナに帰還するのは夜になることが多いこと、高高度を飛行するのがやはり困難で、しかも爆弾搭載量を制限することなどから有効な爆撃は望めなかった。日本軍の戦闘機も積極的に迎撃してきたが、B-29の損害は少なかった。


1945年2月にアメリカ軍は硫黄島に上陸した。4週間かけて島を占領し、ここはB-29の避難所と護衛戦闘機の基地として使用され始めた。また、空母艦載機が日本本土への攻撃に参加し始めてもいた。ヨーロッパ同様、護衛戦闘機の厚い防御が期待できるようになったのである。

最初の戦術が効果が少ないと知ると、アメリカ軍爆撃隊の新司令官ルメイは、高高度からの精密爆撃ではなく、夜間の焼夷弾による地域爆撃に切り替えるよう命令した。

3月9日夜間、低高度で侵入した334機のB-29は東京に飛来し、2000トンの焼夷弾を投下した。1日の爆撃で約8万の人間が死亡した。低高度を飛行することで爆弾搭載量も増え、また地形レーダーも使用できるので、悪天候も克服できるようになったのである。

そして日本の都市は工場や居住地区が狭く密集しており、焼夷弾による地域爆撃には非常にもろいことがわかったのである。6月には日本の主要な大都市はすべて廃虚となり、中小都市も爆撃を受けた。8月までに工業生産高は50%、特に造船、航空機関係では25%にまで能力が低下した。日本の戦争経済は破綻したのである。もはや原子爆弾の投下を待つまでもなく日本の運命は決まっていた。

B-29が本格的な爆撃を開始してわずか半年で日本の主要都市が壊滅したというのはまったくあっけないとしかいいようがない。ヨーロッパで3年に渡ってドイツ空軍と激しい戦いを繰りひろげ、そして勝ち抜いてきたアメリカ航空隊にとっては、日本の防空体制はまったく相手にならなかったということだろうか。

まず機材の問題がある。日本軍は高高度で迎撃できる戦闘機を持っていなかった。なんとか同じ高度に上昇しても性能が落ち、いったん接触を離れるともう一度攻撃することは不可能であった。

また燃料も不足してきており粗悪なものしか手に入らなかった(捕獲した日本軍機を後にアメリカ軍がテストしたらデータ以上の性能を発揮している)。そして迎撃に不可欠なレーダーの性能と数の問題である。

もうひとつ大きな問題に戦略的な制約もあった。沖縄が占領されると、航空部隊、そして航空燃料が、予想される本土決戦のために温存され、迎撃用には十分な量が与えられなかったのである。

結局のべ30000出撃以上の第20空軍のB-29が日本を爆撃し、そのうち485機が各種の原因で失なわれた。そのうち日本軍によって撃墜されたのは87機であったとされている。余談ではあるが、日本爆撃の責任者ルメイは北ベトナムの爆撃も指揮し、また航空自衛隊の創設に功績があったとして勲章を受けている。

長すぎて以下略🙀

 

如何だったでしょうか。残念ながら9801本体は死亡確認となり、5インチソフトを動かす環境がなくなってしまった為、同時に発掘した大戦略なども含め動かすことは出来ませんでした。どのようなゲームか、是非1度プレイしてみたいものです。

なお、プレミアなどは全くついておらず、駿河屋でも買取800円でした。販売価格は恐らく1600円辺りでしょう。

ネット上でも殆ど紹介されていないので、かなりマイナー作品か、或いはそれなりに売れたものの、内容的に評価されず処分されまくったか・・・その辺りも含めて謎だらけです。

ただ、当時リアルタイムで「マイコンBASICマガジン」や「ログイン」を購読していた変態小学生の私ですが、本作が取り上げられていた記憶が全くありません。雑誌にも取り上げられないほどのマイナー作品ではないか、そのように考えています。

という訳で、国と天皇陛下を思い戦い散った英霊たちに祈りを捧げながら、処刑を逃れる為にCIAの一員として暗躍した売国岸信介正力松太郎に怨念を飛ばしながら〆たいと思います💀